江戸時代、日本で大船(外洋船)が造られなかった訳

鎖国まで日本は外洋帆船を建造・保有していた

日本は鎌倉〜室町・戦国時代は盛んに中国・東南アジアへ交易で進出していました。江戸初期には西国の商人・大名などが幕府から発行された「朱印状」という貿易許可状を得て[朱印船]と呼ばれる外洋帆船を建造し、貿易を行っていました。

朱印船とは日本前(にほんまえ)と呼ばれた外洋帆船で、国内でも建造されたほか、中国やシャムなどからも購入されています。

朱印船は中国のジャンクをベースにしながら、帆装の一部や舵と船尾回りに西欧のガレオン船の技術を取り入れ、船首楼を日本独特の屋倉形式を取り入れるなど、中和洋のそれぞれの利点・様式を組み合わせた船でした。

はじめ貿易振興をはかっていた徳川幕府でしたが、一転して鎖国政策を取り始めます。これは“南蛮人(スペイン・ポルトガル)はキリシタンを使って侵略を策略している”としてキリスト教禁教令を発し、日本人の海外渡航も禁止(やがて帰国も禁止)、その中で大船建造を禁止する政策がとられます。

大船戦建造の禁止に関連する法令として、まず慶長14年に西国大名が保有する500石積以上の船の没収令を発しています。

寛永12年、朱印船を保有する貿易商人・大名に対して、朱印船派遣と建造を禁止する[大船建造禁止令]を発しています。


禁止の内容をおおまかにあげると、

船の帆柱檣(マスト)を2本以上にする事の禁止。

船底の[竜骨]を禁止し、平らな構造にすること。


和船の檣は1本と思われがちだが、実は常用でない2本目を使うことがあった。
2本以上の帆柱制限や竜骨の禁止を裏付ける法令は、天保13年(1842)の『三檣禁止令』を除いては明確に記録されていないようである。

[竜骨]とは、外洋帆船に用いられる外洋航海に必要な強度を得るための船底材。船底が平らでは外洋航海に耐える事は難しい。


この他の制限として、寛永12年の[武家諸法度]で、500石積以上の船の建造制限が盛り込まれていますが、寛永15年には荷物を運搬する和船で商船に関してのみ制限が撤廃されています。・・・・なぜ?

幕府が警戒したのは軍船建造でした。当時の軍船は機動力を得るため櫂による航行に比重が置かれ商船とは構造も異なります。朱印船の場合帆走が主の商船でしたから、大きさだけではそれほどの問題ではなかったのでしょう。

大船建造禁止に関する法令は、記録や内容が曖昧になっているものが多く、この曖昧さがかえって諸大名への締付けには好都合だったのかもしれません。「この程度は大丈夫だろう・・・・」って、大名が何かやらかしたら、こじつけで「いや、それは違法である!」ってとがめる材料にできる訳です。法の運用・裁量権は幕府にあったわけですから。

このような制限下に入った日本は、船体構造・艤装とも中国のジャンクや西欧帆船などとは異なる[和船]と呼ぶ沿岸船を建造することになります。

しかし和船とは突然現れた船ではありません。古代から綿々と続く日本の船の延長上にある船ですが、明との貿易に使われた遣明船などがそのルーツともいえます。

大船建造禁止令によって、外洋船造船はすたれますが、船を建造する基礎技術は和船においても廃れることな受け継がれました。

開国し洋式船の建造が解禁されたとき、最新技術を素早く受け入れられるだけの素養が日本の技術者(船大工)にありました。

そうでなければ開国直後の「ヘダ」の建造など、いくら欧米人の指導があっても簡単にできるものではなかったでしょう。


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