幕末・維新の概史・・・・おおざっぱ(^^;)
開国は近代海軍のはじまり
日本の近代海軍は明治政府が作ったって考え方があります。まぁ間違いではないけれど、○△×で評価をするなら△。

明治政府の日本海軍は、古い体制を引きずりながらも始めた徳川幕府・諸藩の下地なしにできなかったんです。

黒船の来航で開国した日本では尊皇攘夷という、欧米列強の進出を日本の危機と感じ「夷狄(外国)を追い出せ!」って思想が広がっていくんです。

それで長州藩の「下関戦争」、薩摩藩の「薩英戦争と、外国と戦争をしたんですが、長州は砲台を占領され彦島を割譲されそうなり、薩摩は鹿児島の街を焼かれ、手ひどくやられちゃいます。
長崎海軍伝習所
長崎海軍伝習所

薩英戦争で鹿児島城下を砲撃する英国艦隊
薩英戦争で鹿児島城下を砲撃する英国艦隊

これらの戦いなどで、日本は勝てない事を痛感させられます。こうして「戦うより、外国を利用して技術を取り入れ、大砲や軍艦をいっぱい持ち、外国に負けない国にする・・・・」って考え方「富国強兵」に移っていったんです。

その中で徳川幕府は、最も多くの人材・技術の両面で近代化を進め始めます。

例えば洋式船を購入し、勝海舟らに海軍創設のため長崎海軍伝習所をやらせて人材を育成したり、学校・溶鉱炉・造船所、その他諸々も作ってます。

薩摩藩など大藩も同じくやってるんですけど、幕府が違ったのは幕臣以外の諸藩にも広く門戸を開いたこと。土佐の坂本龍馬をはじめ、幕末の勤皇・倒幕の志士達は、幕府の機関で学んでます。それが結果として反幕府勢力を育ててしまう事になるんですが・・・・。

学校の歴史の授業ではこのあたりは学年末あたり。時間がないからかなり駆け足にすすめます。だから「徳川幕府×、薩長・新政府○」なんて思われがちなんですが、なんのなんの。徳川もがんばりました。そして開国からわずか数年で洋式機帆船を自分たちで操れるほどになるんです。これはすごいことですよ!




大政奉還と徳川家(幕府)がめざしたもの

かつての権勢がない幕府は、外国の圧力に負けて朝廷の承諾の無いまま開国・条約批准などをおこない、朝廷・公家・諸藩から批判を受けるんです。それを押し返せない幕府は公武合体政策(朝廷と幕府・諸藩が一体となって政治をおこなう)を孝明天皇の信任を得て、はじめようとします。

でも孝明天皇が崩御してからは後盾を失い、宣言した攘夷も実行できす、長州出兵とか反幕諸藩の押え込みにも失敗しちゃいます。

幕府に近い立場だった薩摩藩も倒幕に回り、坂本龍馬の仲介で反幕府の長州藩と同盟(薩長同盟)を結びます。とうとう追いつめられた幕府最後の将軍・徳川慶喜は、土佐藩の勧めもあって大博打にでます!

なんと政権を朝廷に返上するんです。「もう降りる! 後はお好きにどうぞ!」って、徳川が幕府を自分たちでの手でやめちゃうんですよ。
徳 川  慶 喜
これが慶応3年(1867年)10月の大政奉還。「もしも倒幕勢力と対決して混乱したら欧米列強につけ込まれる・・・・」。幕府の安泰より日本の安泰を考えたんです・・・・と書けば美談だけど、これは表向き。

徳川家は幕府をやめて政権返上したって、領地石高は公称400万石(実高は200万ぐらい)。大名の中ではダントツのNo1。いずれ新政権の中心におさまるのは確実。実質的な権力がなくなるとは思ってなかったんです。

そして「政権経験や財政基盤のない朝廷・公家・反幕諸藩ではまとめられない・・・・」とも踏んでいたのでしょう。けっこうしたたかなんです。世界でも例のないくらい穏便な政権委譲をやってのけたのは見事なんですけどね。




王政復古と徳川家の終焉

徳川の大博打に出鼻を挫かれた薩長を中心とする反幕諸藩・急進派公家は、巻き返しのため天皇の御所を占拠。強引に徳川家を排除し、官位・領地召し上げを決め、新政府を発足させます。
これが王政復古の大号令、いわゆるクーデタってやつ。これには徳川も怒ります!「穏便に政権を返したのに(>_<メ)!」

当時二条城にいた慶喜は、家臣に軽挙妄動を戒め静観します。開戦は賊軍になる恐れありですから。

やがてあまりにも強引な薩長主導のやり方に異を唱える藩も出始めます。徳川家が朝廷に反抗した訳ではないので・・・・。反論に苦しい新政府(薩長等)は、徳川家への厳しい姿勢をパワーダウンさせます。しかしこれではクーデターの目的が色あせてしまう。

そこで薩長は江戸で騒ぎおこし挑発。江戸の急進佐幕派が、報復で薩摩藩邸などを焼き討ちをかけていまいます! 慶喜がもっともおそれた事態へ進展してしまう。

勝  海 舟
徳川慶喜は大阪へ移る事で沈静化を図りますが、抑えることは出来ず、徳川軍は京を目指して行軍を開始、慶応4年(1868年)1月3日。正月だというのに鳥羽・伏見の戦いがおこります。

1万を越える徳川軍に対し薩長の新政府軍は約5千。

鳥羽伏見の戦いは、薩長の新政府軍の優れた近代兵器の威力で勝ったと言われます。しかし徳川軍にも歩兵伝習隊など、薩長に対して数・質共に負けぬ部隊がありました。ところが大元に指揮官には近代戦を理解している人物が少なく、大軍勢に油断して指揮・統制が上手く取られてなかったんですね。

一方新政府軍は指揮・統制に優れ、密集戦法を取ろうとする徳川軍を機動攻撃で翻弄します。

さらに「錦の御旗(天皇の家紋旗)」という、想像もしなかったものが出現し、徳川軍は賊軍にされて恭順や寝返る藩も続出し総崩れ。

この時代の価値観って、誰も天子様(天皇)の敵になることは考えられないんです。今では想像もつかないほど尊い存在だったんですね。といっても明治の絶対君主的なものとは全く意味合いが違います。もっと立場を越えた象徴的な、今の天皇制にちかいかな?

徳川慶喜は江戸へ逃げ、情勢を見た諸藩は次第に新政府軍に加わり、徳川家を朝敵として征討軍を江戸へ進軍させます。

徳川家では幕閣が辞職し、陸軍総裁・勝海舟を中心とする体制が作られます。

勝海舟は元々下級幕臣で、世が世ならとてもそんな役は回ってこなかったんですが、幕府が開国前後、混乱を乗り切るため身分・家柄を問わない人材登用したことで頭角をあらわした人物なんです。
海軍伝習所創設に関わり、後に敵となる諸藩藩士との交流もあり、卓越した視野をもって「屋台骨の腐った幕府なんてもういらねぇ!、日本を一つにするんだ」なーんて事をはばからず云っちゃう人柄だったから、反幕の人間に評価が高い“変な幕臣”やったんです。

その分誤解も多く、徳川第一の保守幕臣とはソリが合わなかったっみたみいですけど。でもこうなったら好き嫌いなんて言ってられない。薩長に太い人脈と信用を持つ「勝」しか徳川家を救うに適任がいなかったんですね。

朝敵にされた徳川家新体制と勝海舟のモットーは「恭順しながら、いかに徳川家と家臣の身を立てる道をつけるか・・・・!?」全面戦争になったら国は荒れ、外国につけ込まれるかも知れないので、これは新政府も嫌なのでこれしか採る道はない。

倒産企業の整理役みたいなもんです。損な役回りで家臣(旧幕臣)の中にも「勝海舟は負け海舟!」な〜んて罵しって糾弾する抗戦派もいてます。ほっといたら徳川が内部分裂しかねない。

そこで抗戦派を官軍と戦わせるために江戸の外へ出し、もぬけのカラにしちゃいます。丸裸になって官軍と交渉しやすいようにしたんですな。

例えば新選組の近藤勇に軍隊を率いて甲府へ行かせますが、古い装備と近代傭兵に不慣れだったので、負けてしまいます。まぁ、抗戦派も負けたって戦えば「上様(徳川慶喜)を守る為に戦ったんだ!」って忠義は成り立つ訳で。メンツは立ててやったわけです。
と言っても武力もないと新政府が強引に出てきたとら困るので、いざという時のため、勝は陰で各地の抗戦派を支援していたようです。和戦両方策もあったんでしょう。

こうして勝海舟と征討軍の責任者・西郷隆盛との会談で江戸城は無血開城。「・・・もし攻めたら江戸を火の海にし、幕臣は徹底抗戦するゾ!」っていったり、外国の公使を介して圧力をかけたり、裏で根回し駆け引きはかなりやってます。

徳川慶喜は実家の水戸で謹慎。のちに隠居して家督を譲り、徳川家は駿河70万石へ国替。後の廃藩置県で徳川家は消滅しちゃいます。

話はチョットソレますが、明治になってからも徳川慶喜は政治には関わりませんでした。静岡では自転車に乗ったり、写真や絵画とか幅広い趣味人として「慶喜(けいき)さん」って呼ばれて親しまれてたそうです。

清濁いろんなことをやって徳川家を何とか残した勝海舟は、新政府の職につきますが、権力の中枢にはつかず、残りの人生を反政府的な旧幕臣・士族をなだめ、徳川慶喜の朝敵返上と幕臣の生活救済に奔走します。
福沢諭吉なんかは勝の行動を「一貫性がない・・・・」って批判してますが、矛盾があっても複眼的行動がなければ様々なことに対応できません。まぁある意味クールな外野はほっといて・・・・。

やがて勝の奔走が実る時が来ます。明治32年3月2日、徳川慶喜は天皇から招待を受け、皇居へ参内します。これは異例中の異例です! 天皇が朝敵だった人間に会うなんて過去前例のない事。
ということは「徳川家を朝敵にした事は誤りだった」ことを認めたということになりますね。

あっけない徳川家(幕府)の終焉ですが、これが明治維新・新政府のダメージを少なくして近代日本のスタートをうまく切らせた訳です。「明治維新の最大の功労者は、力があるのに何もしなかった徳川幕府だ!」と云う人もいるくらいです。

おかげで苦労に苦労重ねて来た西郷隆盛は、維新の戦いは五年や十年は続くと思ってたようで、一時は気が抜けてふぬけになちゃいました。



脅威!榎本(旧幕府)艦隊の脱走


話は戻って、江戸城を開城させた新政府軍と新政府はその後どうしたか? 実は徳川が予想した通りスカンピン。

旧幕臣・諸藩から資産を取り上げるんです。「歯向かえば容赦はしない。降伏するなら出すモノ出せ!」って、かなり強引に。
特に幕府の命で尊皇倒幕各藩を弾圧した東北諸藩を怨念返しに朝敵にします。

そんな対応だから東北諸藩は「奥羽列藩同盟」を作り、旧幕臣抗戦派を加えて対抗。これは半独立国家みたいなものなんです。そんな中で徳川海軍副総裁・榎本武揚(釜次郎)が率いる徳川艦隊は江戸湾・品川沖にいたんですが、どう動くか注目の的でした(一部の艦船は朝廷・新政府軍へ引き渡している)。
榎本武揚

 新政府軍は「奥羽皆敵」と言葉の元、対抗する東北諸藩を攻撃。會津や長岡・二本木などで凄惨な殺戮の末に圧倒。でも海では徳川艦隊(旧幕府艦隊)を圧倒する力はなかったんです。徳川家恭順後、新政府軍は再三榎本に艦隊の引き渡しを求めますが、断ります。

 榎本は新政府を「強藩の私意」として「真正の王政に非ず」と批判する檄文を発しています。また勝海舟と榎本武揚は密約があったともいわれ、徳川抗戦派や東北諸藩を攻め過ぎる新政府軍への抑止力として江戸湾で温存し続けたのかも?

 慶応4年(1868年)8月19日、徳川慶喜と後を継いだ家定が駿河へ転封(国替え)になります。
 徳川の処分が決まったのを見届けた榎本は、徹底抗戦派旧幕臣らを載せて蝦夷地(北海道)を最終目標とし、奥羽列藩同盟を支援するのため、開陽丸・回天・蟠龍丸・千代田形の軍艦4隻、咸臨丸・長鯨丸・美加穂丸・神速丸の輸送船4隻、合計8隻の艦隊は江戸湾を脱出します。

 やっと海軍の話になったなぁ。
品川沖を出港する榎本艦隊(旧幕府艦隊)
品川沖の徳川(旧幕府)艦隊
榎本艦隊の兵たち
榎本艦隊の兵たち



幻の蝦夷共和国
新政府軍はあわてます。維新戦争・特に東北の戦いは一艦隊の行動で(開陽丸一隻だけでも)一変する恐れあったんですね。

まだ陸上で移動するには人馬でしかできなかった当時、大砲や兵隊をたくさん積んで一気に移動し攻撃できる軍艦は、脅威な存在でした。

ところが、榎本たちはツキに見放され始めます。艦隊は浦賀を経て、外海に出た房総沖で嵐に遭い、艦隊はちりぢりバラバラ。開陽丸は舵を損傷。美加穂丸は銚子近くの黒生海岸で座礁破壊。

咸臨丸はマストを全て折って駿河へ漂着。新政府軍に襲われ乗員殺戮の末、奪われてしまいます。

慶応4年から明治元年に改元された後、嵐でちりぢりになった艦隊は、ようやく仙台湾に集まるんですが、すでに東北・奥羽諸藩は新政府軍に降伏・恭順していました。榎本(徳川)艦隊は東北で逃れてきた抗戦派勢力を収容。蝦夷地(北海道)に向けて出発。
蝦夷政権に参加した
土方俊三
明治元年10月19日函館の北、鷲ノ木に上陸。11月1日新政府軍の手薄だった函館を占領。さらに松前藩・江差を攻撃。開陽丸も支援のため江差へ向かいます。

その最中の11月15日、この日は嵐で、なんと開陽が座礁・数日後沈没してしまいます。これは痛かった。あいた〜ぁ! あっ、この後の11月24日輸送船・神速丸も江差で座礁して破船してます

明治2年(1869年)、榎本たちは函館で事実上の蝦夷政権を樹立してます。武士の間で選挙を行い幹部を選出する等、共和制の先駆け的な事を試みてます。

そして「朝廷に敵意はないこと、幕府がなくなって暮らしに困る旧幕臣に蝦夷地を貸して欲しい」と願い出てます。でも新政府は認めなかった。

それまで表向きは中立(局外中立)を取っていた諸外国が、東北の平定などで新政府を承認して武器の売買を始めます。

徳川幕府が買い付けて留め置かれていた武器、特に軍艦「甲鉄」が新政府軍の手に渡ることになるんです。 こうなると残った艦と陸軍だけではかなわず、明治2年5月18日、蝦夷共和国は降伏。徳川(旧幕府)の海軍は消滅ちゃいました。

ここ新政府の姿勢に変化が出ます。これまで「朝敵は処刑」だったのですが、その敵にも優れた人材がいて、戦いで失われる事の重大さに気づいたのか、榎本ら生き残った蝦夷政権の幹部らを助命・恩赦の後、政府に登用していきます。

 こんなふうに新政府軍・旧幕府軍ともに生き残った人材は、日本海軍へ引きつがれます。
新政府軍にわたった軍艦甲鉄


軍艦の部屋TOP