咸 臨(丸)
Data:木造機帆コルベット(後に帆走輸送船)/推進:スクリュー・帆走(後に帆走のみ)/トン数約600t/長さ:27間/幅:4間/馬力:100馬力(機帆コルベット当時)/速力:6ノット(機帆コルベット当時)/武装:32ポンド砲12門(機帆コルベット当時)/1857年(安政四年)オランダ・カンデルク社で建造/オランダ仮名「ヤパン」


日本人の手で初めて太平洋を渡った船。

露土戦争が終結し新船建造が可能になったオランダは、日本から要請を受けていた新船製造を開始。
1番艦として完成したのが、オランダ海軍コルベット「バリー」型、「ヤパン(Japan)」(仮名)である。

安政4年(1857年)9月、ヤパンは長崎に回航され日本名「咸臨丸」と命名された。

安政7年(1860年)幕府は通商条約批准使節をアメリカへ派遣することになり、使節団はアメリカ軍艦「ポ−ハタン」に乗船することに。その護衛として咸臨丸が日本人の手で繰艦し派遣されることになった。

当初この任には観光丸を当てる予定だったが、船体が老朽化して不向きな事が判明。次に佐賀藩に練習船として引き渡されていた「長陽」が検討されたが、選定時期には長崎にあったため、江戸湾に入港していた「咸臨」が抜擢された。

しかし咸臨は本来は近海で使用する浅吃水型軍艦だったので、外洋航海では波風での傾斜が強くなり不向きな面も多かった。

そこで万全の船体整備を施して送り出す為、日本で初めて「乾船渠(排水して船を整備できるドック)」が浦賀に造られた。

当時日本には乾船渠がなかったので、浦賀港に注ぐ川を利用し川に船を引き入れ、河口を締め切り排水して造られた。ちなみにこの乾船渠は明治維新後も使用され、現在の住友重工浦賀造船所の元になっている。

使節団を乗せたアメリカ軍艦「ポ−ハタン」は、安政7年(1860年)1月23日横浜を出帆。咸臨は機関出力・石炭備蓄量が低く低速の帆走が主となるため、先に1月15日に出帆。軍艦奉行:木村摂津守、船将(艦長):勝麟太郎(勝海舟)以下約90名、米海軍ブルック大尉以下遭難で在留していた米国人帰国者11名を乗せ、洋上で追いついて来るポーハタンと落ち合う予定だった。

しかしポーパタンは連日の荒天で損傷しハワイへ寄港・修理する事に。このため咸臨は単独でアメリカへ航海する事になってしまった。

初めての大航海に日本人乗員は苦労し、艦長・勝は船酔いで自室をほとんど出なかったというが、ブルック大尉以下の助力もあって2月22日サンフランシスコに入港。国賓として盛大に迎えられ、損傷箇所の修復を受けて3月19日(3月18日に万延元年に改元)帰途につく。
復路は大きな嵐もなく無事5月5日、浦賀に入港。ここに日本人初の太平洋横断航海は終わった、

帰国後は小笠原諸島の開拓に派遣などの後、慶応二年(1866年)船の損傷・老朽が大きいため、建造から十年あまりで蒸気機関を取り外し純帆船の輸送船となる。

これは当時日本の船体保守・修理技術が未熟だったこと。太平洋航海中アメリカの造船所で発見指摘された、建造の際の不完全(手抜き工事)などから船体の老朽化が早かったものとされている。

慶応4年(1867)8月19日、咸臨は榎本武揚率いる徳川(旧幕府)艦隊の輸送船として蟠竜丸に曳航され江戸湾を脱出。房総沖で嵐に遭い、蟠竜丸と漂流して清水港へ入る。蟠竜丸は修復して出港できたが、帆船の咸臨は嵐でマストを折り稼働不能におちいっていた。
9月18日、新政府軍艦「富士山」「武蔵」「飛竜」が咸臨へ攻撃。当時の咸臨は修理のため武器を陸揚げし無防備状態。白旗を上げて降伏意志を示したが、無視され多くの乗員が虐殺された。このとき犠牲者の遺体を新政府軍の咎めを恐れず丁重に葬ったのが清水次郎長である。

捕獲された咸臨は大蔵省所管となり、明治2年(1869年)北海道開拓使。さらに回漕業・木村萬平の手に渡り北海道の物産輸送に活躍。明治4年(1871年)9月19日小樽に向かう途中座礁、翌20日破砕。