開 陽(丸)(KAIYOU MARU) Data:木造機帆フリゲート/推進:スクリュー・帆走/トン数:2,817t/全長:240フィート/幅:45フィート/馬力:400馬力(機関航行時)/最大速度:9ノット(機関航行時)/武装:クルップ12サンチ砲26門など |
木造機帆フリゲートに属する。幕府・諸藩が保有した軍艦では最大。 当時の洋式船は、贈呈船や中古船が主だったが、幕府は新造艦建造を決定。榎本武揚以下15名の留学生をオランダへ送り、設計から関わらせ建造した艦である。 その大きさ・武装などそれまでの諸藩の船とはケタ違いのもので、開陽丸一隻の存在で海のミリタリーバランスが圧倒的に幕府有利に傾いたという。 ただし鋼鉄製の軍艦が登場し始めた中でオランダ側の提案を辞退して木製軍艦で建造するなど、必ずしも最新装備を選ばなかった。これは日本国内で鋼鉄船の整備が充分出来ない状況を見越しての事と思われる。 一方で鉄材・銅材での補強は施している。 |
文久3年(1863)8月、オランダのヒップス・エン・ゾーネン造船所で起工。オランダ海軍工廠で艤装をおこない、慶応2年(1866)7月17日完成。 10月25日、オランダ海軍デイーノ大尉を指揮官に、留学生9名とオランダ人乗員100名でオランダのフリッシンゲン港を出港。大西洋〜インド洋、インドネシアを経由し、横浜に到着したのは慶応3年(1867)3月26日。 幕府に上納後、榎本武揚が軍艦乗組頭取(艦長)に就任。 その直後徳川幕府は大政奉還・王政制復古で新政府軍と対立。開陽丸は回天、長陽と共に江戸から逃亡した薩摩藩・翔鳳丸を追撃。 その後開陽丸は、富士山、蟠竜、翔鶴丸、順動丸らと共に。徳川家直轄の兵庫港(現神戸港)と大阪の警備に就く。 慶応4年(1868)1月2日、開陽丸は、兵庫港を出港した薩摩藩・平運丸に対して空砲で停船を命じたが、応じなかったため実弾で砲撃。翌日薩摩側が抗議。榎本は万国公法に則った行為であるとしてこれを拒絶。 1月3日、鳥羽伏見の戦いが起こる。開陽丸は、大阪湾で警戒していた。当時兵庫港(現神戸港)には 薩摩藩の軍艦・春日、運送船・翔凰丸、平運丸が停泊。鹿児島への帰帆準備中であった。 1月4日早朝、平運丸は明石海峡、春日・翔凰丸は紀淡海峡(紀伊水道)に向け出港。 開陽はこの動きを知り追跡。停船命令の空砲を撃つが無視したため、開陽は春日と翔凰丸を追撃し、敵艦に実弾25発砲撃。春日も18発砲撃したが、双方大きな損害には至らなかった。 春日は開陽より速力が高かった為土佐湾方面へ逃亡。翔凰丸は逃げ切れず阿波(徳島)・由岐浦の岸に座礁し、拿捕を恐れて自沈した。これが日本初の近代海戦・阿波沖海戦である。 |
阿波沖海戦 春日(手前)と開陽(奥) |
鳥羽伏見の戦いは徳川が敗れ、開陽は徳川慶喜を乗せ江戸に戻り、徳川家は新政府に恭順。 徳川(旧幕府)海軍副総裁に就任した榎本武陽は、開陽ら有力軍艦を新政府軍への引き渡しを拒否。 慶応4年(1868)8月19日、開陽をはじめとする艦隊は江戸湾を脱出。仙台を経て明治元年(1868)11月に蝦夷地・函館と五稜郭を占領。 同年11月15日、松前藩・江差を攻撃支援中に嵐に遭い座礁して沈没。進水からわずか3年ほどいう短い活躍だったが、一隻の存在が明治維新の行方を左右した軍艦だった。 |
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