ヘ ダ(戸田)(君沢形などの試作船)

Data:木造2檣スクーナー/推進:帆走/トン数100t/安政元年(1854)伊豆・君沢郡戸田(へだ)村で竣工

安政元年(1854)、ロシアはアメリカが日本と和親条約を結んだことを知り、ロシア皇帝:ニコライ一世の命でが条約締結のためプチャーチン一行がディアナ号で来航。

交渉は伊豆の下田・長楽寺で幕府全権の筒井政徳・川路聖謨との間で進められた。条約は日米和親条約とほぼ同じ内容で、北方4島を日本領。樺太を両国民の雑居地とすることが定め、12月21日締結。

交渉は第一回目が下田・福泉寺で開かれ、第二回目の交渉を約束した翌日の午前、地震が発生。
ヘダ(戸田)
プチャーチンはディアナ号の乗員共に、伊豆の人々を救助・医療援助をおこなったが、津波によってディアナ号が大破。修理のため西伊豆の戸田(へだ)村へ回航の途中、嵐に遭い宮島村沖で沈没。

地震で救援を受けた地元民はディアナ号を助けるため、嵐の中をのべ数百隻にも及ぶ船を出して懸命な救助活動をおこない、乗員は戸田村へ収容された。

帰国の手だて失ったプチャーチンとディアナ号の乗員は、救援船を本国へ呼ぶため、幕府の許可・支援のもと、戸田の船大工達や住民の協力を得て、日本で建造可能な小形洋式船を約3ヶ月で建造。(注1)

安政2年(855)3月10日プチャーチンは住民に感謝し、船名を「ヘダ」と名付け先発乗員らと共に帰国した。幕府はヘダを今後の洋船建造の研究に返還を希望していたが、プチャーチンはヘダと全くの同型船を新造して日本へ回航した。

これは突貫工事で建造されたヘダが、船体強度など不充分な面もあったので新造したものではないかと思われる。
ヘダ建造に働いた船大工・上田寅吉、鈴木七助らは後に長崎伝習所へ。緒明菊三郎は横須賀の浦賀ドック開設に働き、近代造船に貢献することになる。

幕府はヘダをもとに、同系船「君沢形」型(100トン)を8隻建造。この他「豊島形」型(500トン)を4隻、「韮山」型(30トン)6隻などの建造に参考にし、多くの技術者養成も果たした。これが最初の日本製機帆砲艦「千代田形」建造へつながってゆくことになる。

プチャーチンの乗艦してきたディアナ号は、当時のロシア帆走軍艦。長さ52メートル、2,000トン。大砲52門を搭載、乗員500名だったという。

君沢形
注1:当時のロシアは露土戦争でトルコと戦争中。英・仏はトルコ側ついていた為、在日英・仏軍艦の攻撃を受ける可能性が合ったので、急ぎ建造し帰国する必要があった。

★ヘダ建造の物語が「幕末のスパシーボ」というアニメーションになっています。