蟠 龍(丸)のちの日本海軍軍艦「電竜」

Data:蟠竜丸=木造機帆船(スチームヨット)/推進:スクリュー.帆走/トン数:370t/全長:23間1尺/幅:3間3尺/馬力:60馬力(機関航行時)/武装:砲4門等/安政3年(1856年)イギリス・ブラッウオール・グリーン造船所で建造/イギリス原名「エンペラー」
電竜=排水量370t/速力:7.6ノット(機関航行時)/全長:135フィート/幅:22フィート/馬力:128馬力(機関航行時)


安政5年(1858)イギリス・ビクトリア女王から徳川将軍へ贈られた機帆船(スチームヨット)。のちに幕府軍艦となり「蟠龍」と命名された。





慶応4年(1868)、榎本武揚率いる徳川(旧幕府)艦隊の一員として品川を出港。8月20日房総沖で嵐に遭い機関故障。曳航していた咸臨丸と共に伊豆・下田に漂着し、清水へ入港。

徳川艦隊脱走の報告を受けた徳川家は清水港へ使者を送り恭順を進めたが、機関が修復できたので航行不能の咸臨を残して9月10日出港したがまた嵐にあい、伊豆・安良里港を経てようやく仙台湾にたどり着く。

艦隊に復帰後は開陽丸らとともに函館へ転戦。開陽丸沈没後は回天とともに蝦夷政権の主力艦として連ねる。

函館の戦いでは新政府軍艦「朝陽」を撃沈する武勲をあげ最期まで抗戦する。しかし多くの砲弾を受け、砲弾が尽きた後海岸に乗り上げ、艦長・松岡磐吉以下乗員は脱出、船体は官軍によって焼かれた。

徳川(旧幕府)軍艦「蟠龍」の艦歴はここで終わる訳だが、船体の歴史はまだ続く。

函館湾の戦いのあと、蟠竜の船体を外国人が引き取り上海で修理。再び日本へ回航した所を明治6年(1873)6月に北海道開拓史が購入。
はじめは蟠竜丸と呼んでいたが「電竜」と改名。のちに海軍・沖鷹丸と交換され、日本海軍軍艦「電竜」となった。

明治21年(1888)廃艦。無償払い下げとなり土佐で捕鯨に使用。さらに大阪・名古屋の船会社に転籍する。明治30年、大阪・前川造船所で解体された。