朝陽(丸)(徳川幕府→政府軍) |
Data:木造機帆コルベット/推進:スクリュー・帆走/トン数約600t/長さ:27間/幅:4間/馬力:100馬力/速力:6ノット/武装:32ポンド砲12門/徳川幕府が1857年(安政四年)オランダ・カンデルク社で建造/オランダ仮名「エド」 |
咸臨丸と共に徳川幕府がオランダに建造を発注した3隻(咸臨・電流・朝陽)のうち1隻。咸臨から2ヶ月遅れで長崎に回航され、幕府軍艦として就役。 大政奉還後は、徳川家が朝廷・新政府へ恭順の為、富士山・観光・翔鶴らと共に新政府に引き渡される。新政府軍艦となってからは佐幕諸藩・旧幕軍攻撃に参加。 4月24日朝、新政府艦隊は蝦夷政権(旧幕府)艦隊が守る函館湾へ侵入。蝦夷政権は湾内に回天・蟠龍・千代田形の3隻を配置。新政府艦隊誘い込み、水雷火と陸上の弁天台場と連携して攻撃を考えた。しかし新政府艦隊は察知して湾内に深く突入せず、双方有効な損害を与えられないまま撤退。このとき朝陽は2発被弾した記録がある。 5月11日。新政府艦隊は攻勢にでる。蝦夷政権の軍艦で可動できる艦は蟠龍のみで朝陽は丁卯・甲鉄らと共に蟠龍を攻撃。蝦夷政権側は弁天台場の応援が加わり乱戦。朝陽は蟠龍と砲撃戦となり、双方3〜5発命中弾を浴びせた末、蟠龍の砲弾が長陽の火薬庫に直撃し爆沈した。 朝陽艦長・中牟田倉之助(佐賀藩)と蟠龍艦長・松岡磐吉(幕臣)は、共に幕府の長崎海軍伝習所・二期生。 |
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