昌平丸(昇平丸)(SYOUHEI MARU)(薩摩藩から幕府への献上船)

Data:木造3檣パーク/推進:帆走のみ/トン数300t/長さ:15間/幅:4間1尺/深さ3間/武装:備砲16門/1854年(安政元年)薩摩・桜島瀬戸村(漕の浦)造船所で竣工/薩摩藩原名:昇平丸

日本最初の国産洋式軍艦。

開国で幕府は国防上洋式船建造が急務と考えたが、技術や設備が不足し実現出来なかった。そこで、建造に熱心だった薩摩藩に建造を依頼した。

ぺーリー来航・開国以前から、国防上洋式船建造の必要性を説いていた薩摩藩当主・島津斉彬(なりあきら)は、嵐で漂流してアメリカに11年滞在した中浜万次郎(ジョン万次郎)が開国で帰国してきたので招いた。

万次郎はアメリカで習得してきた技術を藩の軍賦役・田中清座右衛門、田原直助など多くの船大工に教え、国産洋式船第一号が嘉永6年(1853年)5月に起工し、安政元年(1854年)(嘉永7年は11月27日改元)12月12日ついに完成した。

安政二年(1855年)2月23日江戸へ向け回航され、3月18日品川に到着。大変な見物人が品川におしよせ、屋台や茶屋・貸遠眼鏡屋もでて、見物料を取るほどだったという。それだけ国産洋式船への注目は大きかったと言える。

品川では幕府・諸藩要人が乗船し、各種の運用試験を繰り返して8月13日正式に島津斉彬から幕府へ引き渡され、昇平丸から昌平丸へと改名された。

幕府は昌平丸をおもに練習艦として運用し、明治維新後は新政府へ移管され明治二年(1869年)8月、咸臨丸と共に北海道開拓使に輸送船として移管。北海道で物資輸送に従事したが、12月24日函館から小樽へ物資を輸送中に嵐に遭い南部・安渡へ漂着。さらに安渡を出帆後、松前沖でまた嵐に遭い、3月2日江差・木の子村の海岸で座礁破砕。5名の犠牲者をだした。

昌平丸を始め、初期に国内作られた洋式軍艦はまだ洋式船工法が定着しておらず、日本船の工法でつくられていた。例えば釘は直釘ばかり使われており、船体の強度は不充分であったという。