甲鉄(東) KOUTETU(AZUMA)(徳川幕府が買い入れ、のちの日本海軍軍艦「東」)

Data:衝角装甲機帆軍艦/推進:スクリュー2軸・帆走/トン数約1358t/長さ:153フィート/幅:31フィート/馬力:1200馬力/速力:6ノット(8ノットまたは15.5ノットの説あり)/武装(購入期)/艦首300ポンド・アームストロング砲:1門/37ポンド・アームストロング砲2門/6ポンド・アームストロング砲1門/4ポンド・アームストロング砲1門(武装は諸説あり)/フランス・ボルドー・アルマン造船所で建造/日本購入前のアメリカ名:「ストーンウォール」/フランスでの原名「スフィンクス」


日本初の装甲軍艦。
文久元年(1861年)、徳川幕府は海軍力増強のためアメリカに軍艦建造を打診した。しかし南北戦争中のため断られ、やむなくオランダに開陽丸建造を発注。

その後南北戦争が終わったので慶応元年(1864年)幕府はさらなる増強のため幕臣・小野友五郎をアメリカへ派遣して軍艦購入を命じ、一隻を購入(のちに富士山丸と命名)。予算にまだ余裕があったので、さらに一隻の購入に成功。これが「ストーンウォール」、のちの「甲鉄(東)」である。
 元々この艦は1863年、アメリカ南北戦争のとき南軍の発注でフランスが建造した装甲衝角艦である。

装甲といっても木造船体の側面全周に4.5インチの鉄製(当時は純鉄)防護装甲を施したものである。

さらに艦首は水面下に前方約3.5メートルの「衝角(ラム:ram)」が突き出ているのが特徴。これは敵艦へ突撃し、衝角で“体当たり”して浸水破壊するためのものである。さらに艦首には300ポンド突撃用正面固定砲も1門そなえていた。(元祖!波動砲!?)

最初この艦はフランスで「スフィンクス」と命名された。当時の国際慣習では、“交戦国へ中立国は武器を輸出しない”となっていたので、スウェーデン経由で一旦デンマークへ売却され、1864年12月・コペンハーゲンでアメリカ南軍に引き渡し、「ストーンウォール」と命名されアメリカへ回航。キューバのハバナへ到着したころ南北戦争は終結。

艦の所有はキュ−バ政府となり、のちに北軍(アメリカ合衆国)へ引き渡され、繋留されていたところを幕臣・小野友五郎によって買い付けられた。

慶応三年(1867)、この艦はニューヨークで幕府に引き渡され、ジョージ・ブラウン中佐以下アメリカ海軍軍人を傭人として雇い、日章旗を掲げて日本へて回航。慶応四年(1868)4月23日横浜へ入港した。

この時すでに徳川幕府は大政を奉還をおこなっていた。新政府(明治政府)は江戸城開城と東北諸藩・旧幕臣抗戦派との戊辰戦争(維新戦争)の最中で、一時「ストーンウォール」は新政府へ引き渡されたものの、欧米諸国は戊辰戦争中は中立(局外中立)を表明していたので、アメリカ弁理公使バルケンボルクはスト−ンウォールの引き渡しを撤回、徳川(旧幕府)艦隊にも新政府にも渡さなかった。

慶応四年(1868年)10月、江戸湾品川沖で新政府へ艦隊の引き渡しを拒否していた徳川(旧幕府)海軍副総裁・榎本武揚は、抗戦派幕臣らと共に艦隊で江戸湾を脱走。北海道・函館を占領して蝦夷政権(共和国)を宣言した。しかしこの時点で東北諸藩は新政府軍に降伏・恭順。榎本が頼りにした開陽丸も江差で沈没していた。

これらをみて欧米各国は「新政府勝利」と判断し、中立の立場を解いた。こうしてストーンウォ−ルは新政府に引き渡たされ、「甲鉄」名付けられ函館攻略のため僚艦と共に明治二年(1869)3月9日、江戸湾を出港した。

同年3月25日、岩手・宮古湾で嵐を避けて停泊中、函館から来た旧幕府艦隊の軍艦「回天」が来襲。甲鉄に接舷して白兵戦で奪取を試みた。ところが回天の上甲板は甲鉄の上甲板より3メートも高い為乗り移りに手間取り、甲鉄も搭載していたガトリング銃で反撃(世界最初の軍艦での発砲)して撃退している(宮古湾海戦)。

4月の函館戦争では兵員輸送や、春日・朝陽らと共に砲撃で旧幕府艦隊と蝦夷共和国の壊滅に貢献した。

明治二年(1869)6月4日東京へ凱旋した甲鉄は、翌年正式に日本海軍軍艦「東」として編入。明治十年(1877)の西南戦争では、主に四国沿岸の海上警戒にあたった。

明治二一年(1888年)除籍・解体された。

「東」のその後
明治二八年(1895年)12月、東京電燈会社・浅草発電所が開設された。設置された発電機は200キロワット。当時では世界的にも大型のもので、国内ではじめて製造されるものであった。ところが電機子(トランス)の鉄芯に使う純鉄が当時の日本では容易に手に入らず難儀していたところ、神奈川県の古鉄業者が海軍から払い下げして解体した廃艦「東」の純鉄製装甲板を所有していおり、買い入れて使用された。まだ装甲板に特殊加工の鉄材が使われる前ゆえにできた話である。