天保山・明治天皇観艦之所碑

戊辰戦争中の1868年(慶応4年)3月26日、大阪・天保山沖で「軍艦叡覧(日本初の観艦式)」が行われた。

参加した船は電流丸(肥前藩)、万里丸(肥後藩)、千歳丸(久留米藩)、三邦丸(薩摩藩)、華陽丸(長州藩)、万年丸(安芸藩)の6隻とフランス軍艦デュープレックス。

明治天皇が天保山から親閲の元、海軍総督・聖護院宮嘉言親王の座乗する電流丸を先頭に7隻は単縦陣で沖へ進んだのち反転。二列縦陣で天保山沖に戻り投錨。

電流丸は21発の祝砲を放ち、デュープレックスも満艦飾を行ない礼砲を発射。還幸の合図が出ると電流丸・デュープレックスは皇礼砲を発して奉送。

新政府軍軍艦(諸藩軍艦)「甲鉄」「春日」「長陽」など主力艦は、東北・北海道での旧幕府勢力とに戦いのため参加できず、この日参加できた日本船6隻のうち、軍艦は電流丸・万里丸の2隻のみ。他の4隻は輸送船であった。
さらに参加船の総トン数もデュープレックス1隻に満たないものだったと言われている。

天保山:大阪港安治川河口にある標高4.53mの山。1831から始まった安治川開堀工事によって生じた土砂を積み上げてできた[築山」(人工の山)。当時は標高18mあり、高灯籠や砲台も設置された事がある。その後地番沈下し地図上から山の表示が消えたが、1998年再び山と認定。
既に戊辰戦争は始まっており、海戦も行われていたが、当時の新政府軍は旧幕勢力と戦うために各藩から寄せ集められた集団でしかなく、海軍は陸軍に比べ整備は遅れていた。

その中で艦船が隊列を組んで行動を取った事は画期的と言え、近代日本海軍のスタートともいえるだろう。

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