千代田形(TIYODA GATA)(のちの日本海軍軍艦「千代田形」)

Data:木造機帆軍艦(砲艦)・トップスル・スクーナー/推進:スクリュー・帆走/トン数約140t(138t説あり)/長さ:97フィート/幅:16フィート/馬力:60馬力(機関航行時)/速力:5ノット(機関航行時)/武装:備砲3門/1866年(慶応2年)石川島造船所で建造

国産初の木造機帆軍艦。

幕府の軍艦は洋式軍艦を購入し、そろえたものの、実態は寄せ集めで運用・修理も心許なかった。
そこで日本でも量産・整備できる小型で大砲を搭載できる「砲艦」を多数建造すべきだとして、軍艦奉行:井上美濃守は石川島造船所で試作艦の建造を命じた。
船体建造主任に試作艦の発案者:小野友五郎。船体部に春山弁造・沢太郎左右衛門。機関部に肥田浜五郎・赤松大三郎が任命され、文久2年(862年)5月7日に起工。

文久三年(1863年)7月2日進水。艦名を「千代田形」と命名されたが、艤装になってから肥田浜五郎が工作機械の買い入れのためオランダへ渡航。機関部の作業が大幅に遅れ、完成したのは慶応2年(1866年)5月。起工4年あまりもかかるという状態であったが、その完成度は優秀なものだったという。

しかし幕末・維新の混乱期になり量産は実現できずに終わる。完成後は幕府海軍の一員として、幕府崩壊後も開陽丸と共に函館まで行くことになる。

 函館を占領し、蝦夷政権を表明した榎本武揚率いる旧幕府艦隊であったが、切り札の開陽丸を失い、戦力を増強する官軍に対抗する実質的な軍艦戦力は回天・蟠龍・千代田形の3隻しかないまま函館戦争へ突入。

明治2年(1869年)5月1日早朝官軍との戦いの中、千代田形が官軍の軍艦:長陽に無人状態で捕獲されるという前代未聞の事件が起こった。
これは前夜、千代田形が函館の弁天台場(砲台)沖で座礁したことが発端となる。 艦長・森本弘策は艦の放棄を決定し機関・兵器を破壊して総員退艦した。
ところが千代田形は翌朝、満潮と共に浮場して漂流。そこを官軍に捕獲されてしまった訳である。

これを重大な失態として蝦夷政権は、艦長:森本弘策を禁固刑とした。また副長:市川慎太郎は回天の艦上で自刃している。

官軍に捕獲された千代田形は新政府海軍に編入され、明治21年(1888年)1月28日廃艦となった。


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